あらすじ
第一次世界大戦後のニューヨーク郊外に、謎の富豪ギャツビーは住んでいた。
彼は一体何者なのか。
彼が開くパーティーに訪れる者たちは、招待された者もそうでない者も、およそ誰も彼の正体を知らない。
そしてぼくは彼の豪奢な邸宅のすぐ隣に住む、ただの証券マンだ。
まるで別世界に住む彼とぼくがどうして関わりを持つようになったのか。
ぼくが目にしたギャツビーという男と、その周りの人物たちについて話していこうと思う。
まず翻訳小説ということもあり、翻訳家の違いによって読みにくかったり、何を言ってるのかさっぱりわからない、そんな場面がちらほら出てきます。そのため話の筋まで、ややもするとわかりにくくなります。
今回私が読んだのは新潮社から出ている、野崎孝訳のものでしたが、話の筋を手っ取り早く知りたいという方なら、小川高義訳の光文社古典新訳文庫版の方がいいかもしれません。他に村上春樹訳のものも読んでみましたが、村上春樹版が一番現代語に近く、読みやすいかもしれません。
話の筋自体はシンプルです。正直、何の面白みも感じられません。
この小説の魅力の一つは、著者の経歴や時代背景を加味してはじめて楽しめるものかと思います。そしてもう一つの魅力は、英語独特の隠喩を凝らした言い回しでしょうか。
この隠喩を凝らした言い回しのため、何のことについて書かれてるのかわかりにくくなるんですが、この比喩的表現がなければ、本当に無味乾燥な物語になります。
そういう意味では野崎孝訳は原作に忠実な訳で、味わい深いものとなっていると思います。ただ表現が古いんですね。女性が自らを言い表す一人称「あたい」は、流石にもう使わないですよね。
そういった古臭い言い回しを現代の言葉に置き換えて、原作に忠実な訳で味わい深いものにしつつ、わかりにくい隠喩は日本語でもイメージしやすい形に訳されているのが、村上春樹訳の「グレート・ギャツビー」だと思ってもらえるといいかと思います。
グレート・ギャツビー (新潮文庫)
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さて内容についてですが、筋自体はシンプルなため油断をするとすぐにネタバレになりやすいので、筋とは関係のないところで引っ掛かったところを挙げてみようと思います。
この物語では絶えず、現代人の孤独が浮き彫りになっています。現代に限らず、はるか昔から人間の孤独を描いた物語は多いので、今更という気もしないではありませんが。
ギャツビーは財産という金銭的な繋がりで周囲に人が溢れていますが、それはあまりにも希薄な繋がりだったことが描かれています。どこか芥川龍之介の「杜子春」を髣髴とさせるところがあります。もちろん「杜子春」では切実な男女の色恋の話は出てきませんが。
ギャツビー以外の人物にしても、ギャツビーのような金銭的な繋がりを持たないだけで、みんな等しく孤独です。
主人公はその孤独感を郷愁の気持ちにすり替え、生まれ故郷へと帰り、ギャツビーは二度と返らないデイズィとの日々を取り戻そうと突き進んでいたのではないでしょうか。
彼が唯一人間らしくあることができた、彼女と繋がっていたあの頃に帰りたかったのではないでしょうか。
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