
近未来という異世界感を醸すためか、多くの造語や支離滅裂な文章が目につきます。この小説のテーマは本来、身近でより根源的な問題を扱ったものだと思います。ですので、先に挙げた造語や支離滅裂な文章は蛇足に思えます。
この作品において、神への信仰とは善良であること、自発的に道徳的選択をすることを指していると思います。具体的な行動としては他者を傷つけないこと、殺さないことと云った至極単純な行為に凝縮されています。
作品のボリュームが、主人公アレックスの暴力性や残虐性についての描写に、大半を占められています。とても残念です。ここまで描く必要性があったのか、疑問の余地が大いに残ります。
逮捕され、収監されるに至ったアレックスは、洗脳的手法によって一切の暴力的行為を制限されるようになります。もしも他者に害を為そうとすれば、条件反射によって、云い様のない肉体的苦痛に襲われます。肉体的苦痛によって、道徳的行為を選択するように強要される訳です。
このように道徳的選択を強制的に行わせるのはおかしい、というのが作者の言わんとする処だと思われます。そして人は成長し大人になるにつれて、社会の中で自発的に善良であろうと道徳的選択をするようになるものだ、と云った結論に至ります。
要するに子供は善悪の分別がないものだけども、大人になれば自然と自発的に道徳的選択をするようになるものだ。それが本来的な善のあり方だ。何かに強制されて行う善には価値などない、と云うのが作者の思う処だと読み取れます。
確かに社会と云うものは、罪を犯した者を排除したり否定しようとする外的システムのような一面を持っています。結果として罪を犯した者は、その社会では生き難くなります。そう云う社会の仕組みを、人は大人になるにつれて学習します。
しかしそうだとすれば、一体どこからどこまでが自発的と呼ぶべきものなのでしょうか。
そもそも道徳や倫理というものは、円滑な人間関係を築く上で、人と人との間に必然的に横たわってくるものです。言うまでもないことですが、人は個人単独では存在し得ないものだからです。
そう考えると道徳とは、個人の意思や選択とは無関係に、元から外的強制力を伴ったものだと考えられます。つまり「自発的な道徳的選択」という言葉は、概念として既に破綻を来たしていることになります。
言葉としては「外的強制力を無自覚に享受して行う選択」と言い換えた表現の方が、概念としては相応しく思われます。
ならば結局のところアレックスは、否、人はどこまで行っても、他者から善なる行いを強要されているに過ぎないのかもしれません。
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