一軒の家で人生についての真面目な話し合いが幾人かで行われた。
集まった者は皆、自分自身あるいは自分の家族のことばかり思い煩い、他人や神などを気に懸けない生活を送っていると告白する。
だが同時にそのような生活は非難されるべきものであるという、一致した結論にも達した。
そこで一人の青年が、これからは神の御旨に適った生活を送ると宣言したのだが、その場にいる人々に一斉に反対される。
その様子をそれまでずっと黙って見ていた一人の男は、今の生活がよくないものであると分かっていながら、いざ神の御旨に適った生活を実行するとなると、俗世的な理由に託けて今の生活を何も変えようとはしない目の前の人々の滑稽さを指摘した。
そして話は古代ローマ帝国の、自分自身あるいは自分の家族のことばかり思い煩い生きるユリウスと神の御旨に適った生活を送るパンフィリウスの話へと移っていくのだった。
光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)
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本作は単純にキリスト教の宣教的な書物と考えるよりも、善なる行い、善なる生活、善なる生き方をするべきである、という啓蒙的な書物であると考える方が現代の我々にはしっくりくるのではないでしょうか。もちろん本作では「善なる」とは「神の御旨に従った」という宗教的意味合いではあります。
ですが、人のために何かをするということ、また自分自身が人との繋がりの中に生きており、そうすることで自分をも含めた一つのコミュニティ全体のためにもなり、また自分自身のためにもなるという考え方は嫌いではありません。
そうした生活を送ること、行動を起こすことというのは、時には自分や自分の家族の不利益に繋がるのではないかという不安や心配が伴うこともあると思います。ですが本作で述べられる通り、そう考えて何もしなければ何も変わりはしないということも事実です。
よりよいことを始めることは、たとえ遅くとも遅すぎることはなく、たとえ早くても早すぎることはないのです。そして多くの方はそれをわかっているはずなのに、何かと理由をつけて始めないのです。
そのような人々に、これから先の人生の縮図のような物語を端的に提示して、自身の行く末の想像を促す書物としてとても価値のある作品だと思いました。
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