あらすじ
江戸郊外のとあるあばら屋に絵草子妖怪、豆腐小僧がおりました。
いつからそこにいたのかはとんとわからないのですけれども、手にお盆を持って、お盆の上には紅葉豆腐を載せて、ただ立っております。
この豆腐を落としてしまえば、自分は豆腐小僧ではなくなるのだろうか。
ただの小僧になるのだろうか。それとも豆腐諸共消えてしまうのか。
そんなことを考えております。
誰もいない廃屋で永遠にこのまま立っておるだけというのも恐ろしい。
そんな不安から廃屋から出てみましたものの、どこへ行くと云う当てもありません。
そんな成り行き任せの妖怪小僧が、自分が何者なのかを知ることになる道中記です。
文庫版 豆腐小僧双六道中ふりだし (角川文庫)
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これはいいですね。大変面白かったです。妖怪に対しての京極氏の見解がわかりやすく述べられている点もいいですね。落語家のような地の文の語りがまた新鮮です。
素ッ惚けたキャラの豆腐小僧が、最後に見得を切るようなシーンはバカなんだけどカッコいいと、つい思ってしまいました。
妖怪や悪魔の類はよく悪者として描かれるんですが、悪いことを妖怪や悪魔のせいにすることで人は心の均衡を保っている部分はあると思うんですね。
妖怪や悪魔の存在を全否定すれば、悪いことや不運は全て自分のせい、あるいはどうにもならない運命だと思うよりはないわけで、その方が精神衛生上はよくない気がしますよね。
科学は確かにそれまで説明の付かなかったことを解明して、無用の不安を取り除いてくれたかもしれませんが、基本的に人間はどこまで行っても何かに不安を抱いたり怯えたりするもののようです。
科学で説明できたからと言って、不安がなくなるわけではなく、逆に科学でも説明の付かないことに不安を抱いたりすることもあれば、科学で説明できるからこそ余計に恐ろしいこともあるわけですよね。
例えば昔なら何かに憑依された人が誰かを傷つけたり、口汚い言葉を発したりしても、それは全て妖怪や悪魔の仕業ということで救われていた部分があったのが、そんなものはいないとなれば、ではなぜそんな言動をしたのかと突き詰めていくと、心の病気であったり、周囲の環境のせいであったり、本人なのか他人のせいなのかはともかく、誰も救われないという結論が出てくるだけではないでしょうか。
人の心を救う仕組み、不安に形を与えて取り除けるようにしたものが妖怪、と考えれば、それを馬鹿みたいに受け入れておく方が人は幸せでいられたのかもしれません。
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