「占星術殺人事件」島田荘司 (講談社文庫)

2013-05-07

その他の著者

t f B! P L


 どうも私は、推理小説とは肌が合わないようです。これまでにも何冊か、推理小説と呼ばれる類のものを読みました。しかし、どうしてもワクワクドキドキしないのです。このことについて、本作にも触れつつ、自分なりに考えていこうと思います。

 まず推理の条件提示に中る部分が、まだるっこしく感じます。エラリー・クイーンの手法とでも言うのでしょうか。犯人に辿り着くヒント・手掛りを、文章中にさりげなく潜ませてある部分が、楽しく読めないのです。数学であれば、設問部分に中る箇所です。思うに、数学を好む人の多くは設問ではなく、解に至るまでの思索を楽しんでいるのではないでしょうか。

 推理小説と呼ばれるものの多くは、この設問箇所に多くの労力を費やしているように見受けられます。再度、数学で喩えるなら、矢鱈と長い文章問題といったところです。この部分を楽しく読めるというのは、私には不可解です。

 次に登場人物について考えてみます。推理小説の場合、先に謎ありき、といったところから作品が作られていきます。即ち、こういう謎、こういうトリックを成立させるためには……というところから、犯人の性格や立場、また周囲の人間関係や犯行の動機などが決定されていきます。本来ならば、後々湧き上がるはずの謎が、先立って犯人像とその言動を決定してしまう、という転倒が起こる訳です。

 そして本作のような、事後解決型の筋立てになると、探偵役は安全な位置で観察・分析・推理を行うことになります。こうなるとストーリーに大きな動きはなく、しばしば退屈な思いをさせられます。探偵役が最後には必ず謎を解決するという結末は、必然であり、予定調和となります。あとはどんなタイミングで、どのように解決して見せるのか、という演出上の問題に帰結します。


 こうなると多くの場合、読者の関心は探偵よりも犯人側に向かうことになります。その人物、動機、トリックの方法に向かう訳です。しかし残念なことに、推理小説では先に人物ありきではなく、先に謎ありき、なのです。犯人は謎のために作られた人格であり、その動機も言動も、全て謎の成立のためだけに作られるのです。

 数学で喩えるなら、解ける「解」が先に用意されてから、その「解」に至るための、適切な設問が作られるという手順です。真に思索を好む者とは、果たしてそのような問題に興味を抱くものなのでしょうか。

 ある解に対して仮説を立て、立証して行く楽しさとは、どこまで追求しても、その解が真だと言い切れない部分にあるのではないかと、私は思います。

このブログで探す

最新の記事

プライバシーポリシー

当サイトでは、Googleアドセンスなど第三者配信の広告サービスを利用しています。このような広告配信事業者は、ユーザーの興味に応じた商品やサービスの広告を表示するため、当サイトや他サイトへのアクセスに関する情報 『Cookie』(氏名、住所、メール アドレス、電話番号は含まれません) を使用することがあります。 またGoogleアドセンスに関しては、このプロセスの詳細およびこのような情報が広告配信事業者に使用されないようにする方法について、こちらで詳細がご確認いただけます。

アクセス解析ツールについて

当サイトでは、Googleによるアクセス解析ツール“Googleアナリティクス”を利用しています。 このGoogleアナリティクスはトラフィックデータの収集のためにCookieを使用しています。 このトラフィックデータは匿名で収集されており、個人を特定するものではありません。 この機能はCookieを無効にすることで収集を拒否することが出来ますので、お使いのブラウザの設定をご確認ください。 この規約に関しての詳細はこちらをご確認ください。

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

QooQ