秋葉原無差別殺傷事件について、加害者加藤智大死刑囚本人がその背景と経緯について説明をする、という意図で書かれたものです。
一体どういう理由で、秋葉原無差別殺傷事件という凄惨な事件を起こそうと考えたのか、その犯罪者心理を知りたく思い読んでみました。
全体的には、論理的に話を読み進めることができました。納得や理解もできる部分も多いです。というよりも、個人的には基本的に当たり前と考えていることばかりです。例えば腹を立てた際に相手に怪我を負わせる、あるいはもっと進めて「殺す」というイメージや思いを抱くことなど日常茶飯事です。
「他人」についての認識なんて、どんな人間か分からないのだから、こちらが自発的にその人物像を想像しない限り、野良犬や野良猫あるいは風景や景色の一部と大差ありません。
でも多くの人は、だからといって実際に犯罪行為を実行したりしません。その「やらない理由」については、彼も言及しています。つまり「やらない理由」がある、「やる理由」よりも「やらない理由」を選んだ方が得な状況だからやらない、ということです。この辺りも、十分理解も納得もできる範囲です。
「自分の思い通りにならない」という問題にぶつかった際の対処法などにも、特に問題はありません。もしこの点で問題があるとすれば、彼は一つ勘違いをしていることがあるということです。
「世の中は、思い通りにならないことだらけ」と彼は言います。この「世の中」についての解釈は間違いです。「世の中は思い通りにならないもの」であって、思い通りになることなど最初から何一つないのです。人が手前勝手に、思い通りになったと思い込んでいたり、理想と現実の妥協点を見つけて折り合いをつけているだけです。それを彼は思い通りになることもある、と勘違いしています。
物を右から左に動かすのとは、訳が違うのです。「世の中」とは自分も含めた「人の集まり」です。「世の中」を「物」として見ている人には、それは思い通りになるものだと思えてしまうのかもしれません。
ですが、こういう勘違いは多くの人がしていることだとも思えます。ですから、この点が事件の背景とはなりません。
マスコミの報道や警察の作成する供述調書などについての説明は、なるほどと思えます。ですが、マスコミの報道や警察による供述調書について疑念を抱いている人間にしてみれば、その説明は今更どうでもよかったります。それ故に、この本を手に取ったのですから。
以上、掻い摘んでみても、内容の大部分が理解も納得もできる説明になっています。それでも最終的に、この事件については加藤智大個人の人間性に問題があった、としか私には判断のしようがありません。
解 (Psycho Critique)
posted with カエレバ
私がこの本を読んでいて一番引っ掛かったのは「痛みを与えて改心させる」という考え方です。何様ですか。間違いを改めさせる、その上から目線が一番気に入りません。職場の人間を困らせることで、間違いに気付かせようと仕事を辞めた話とか、どれだけ自分を過大評価しているのでしょうか。
人一人、それもバイトや派遣レベルの人間の穴埋めなんて、どこの職場でも大したことありません。そんなことにも気付かなかったのでしょうか。まず彼のこういうところが一点、問題のあるところ、と考えていいと思います。
そして彼は言います。当時の自分には「やらない理由」がなく、懲役を避けるための「やる理由」があった、だから死刑になる事件を起こした、と。「やらない理由」がなかった、あるいは目に入らなかったのなら仕方がありません。
でも、その「やらない理由」がなくなってしまったのは、誰のせいですか? 「やらない理由」が目に入らないほど追い詰められてしまったのは、誰のせいですか? そういう状況になったのは、結局は全て自分の人間性のせいじゃないですか。
一般論として彼は、同様の事件をいわゆる「普通」の人が起こしうると主張します。ですが、実際にそんな頻繁に同様の事件が発生しているのでしょうか。
もし起こっていないなら、どうして起こらないのか? その予備軍の人たちには「やらない理由」があって、またキレるポイントが、あるいは相手を傷つける方法のイメージが自分とは違うから、ということなのでしょうか。ならば、それは最早一般論ではありません。加藤智大だから、このような事件をイメージして、加藤智大だから、状況的に実行せざるを得なくなってしまった、と考える方が自然です。
自分は「社会的に許されないこと」をしたとは理解しつつも、恐らく彼は心のどこかで、選び取った方法は正しい方法ではなかったけども自分は間違えていない、考え方としては基本的に他の人だって同じだと、いまだに思っていると私は推測します。彼は大バカ野郎です。
最後に私は「普通」という言葉が嫌いです。一部で使ってしまったので、私なりにその定義を注釈しておこうと思います。「普通」=「社会的に許容される範囲・程度・基準」と考えます。上記における「社会」とは規模を問わず、人と人との付き合い・繋がり・コミュニティを指し、その社会の規模や人が変わることで、「普通」の内容も変化するものと考えています。また社会的に許容されない事件を起こした人も「普通」ではない、ということになります。
0 件のコメント:
コメントを投稿