『ダヴィンチ・コード』が面白かったので、そのシリーズ第一作を読んでみることにしました。
このシリーズ、あるいはこの著者の特長なのでしょうか、ごく短時間の内に主人公のロバート・ラングドンが巻き込まれる形で、物語が進展していきます。内容について話すと、どうしてもネタバレ的なものになってしまうので伏せておきます。
今回の感想では二点について挙げてみようと思います。まず一点目は、登場人物たちが常に動いているという点です。これが物語に勢いをつけているように思いました。
落ち着きなく動きながら話すという訳ではなく、話している人の動きを描写することで、動きがあるように感じられます。とはいえ、登場人物たちがみんな、派手なジェスチャーやボディランゲージを示すという訳ではありません。話している際の姿勢であったり、顔や身体の向きであったり、些細な描写です。
日本の小説だと台詞は台詞だけ、あるいは誰が口にしたかなどが添えられるだけです。または直接的な心理描写も加えられることもあります。ですが、実際にどう動いているのか分からない描写が多いと思います。むしろ会話している際は、静止した状態でやり取りされている印象すら受けます。
人は動いている物に注意が向く習性があるようです。動く物があると、つい目で追ってしまうという衝動です。これは現実的な物理的なものだけに限られたものではなく、脳内でイメージされたものに対しても有効なのかもしれません。
結果として、小説などでもただ人物たちに会話させるのではなく、動きを絡ませて会話させると躍動感が生まれるのではないか、という一つの仮説に辿り着きました。実際の現実においても、ただ立ち話をするにしろ何かしら動いている、あるいは何らかの所作を伴っているはずです。それらの何気ない所作こそが、生き物の生き物らしさなのかもしれません。
天使と悪魔 (上) (角川文庫)
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二点目について、宗教と科学の対立という構図についてです。西洋では宗教といえば主にキリスト教を指していて、果たして日本の宗教観で『天使と悪魔』で語られる「対立」という概念とその歴史が正しく認識されるのかは、また別の問題になります。
日本ではただ何となく、科学と宗教は相容れないもののような感じがする、という程度なのではないかという気がします。
ひとまずは、それで十分だと思います。そしてこの相反する二者とよく似た「科学と芸術」について、明治の科学者、寺田寅彦は自身の随筆の中で言及していることがあります。「科学者と芸術家」と題された一編で、科学と芸術は方法が異なるだけで、どちらも同じ世界を説明あるいは表現しようとしているものではないか、という考え方です。
この一編は、ただ世界の説明あるいは表現に関する言語の差異が、私たちに一つの錯覚を齎しているのではないか、と主張するものではないでしょうか。すなわち、科学と芸術の二者は対立するものだ、という錯覚を齎しているのではないか、ということです。
この趣旨に「科学と宗教」を当て嵌めて考えてみると、一見全く相容れない「世界のあり方」を説いているようで、実は同じことを異なる角度と言語で説いているだけ、とも考えられるのではないでしょうか。
『天使と悪魔』のラストにおいては、その辺りのことは結局置き去りにされてしまった観があります。そこが少し残念に思いました。とはいえ、二千年の歴史をひっくり返すような大風呂敷のモチーフです。これと同じことを日本の小説でしようとすると、仏教とか神道が出てくるのでしょうか。でも、ここまでスリリングな展開にはならないだろうと思います。というのは、やはり日本の小説が概ね静かなやり取りで物語が進むからなのかな、と第一点目のことが頭に引っ掛かるのでした。
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