「屍鬼」はスティーヴン・キング氏の「呪われた町(セイラムズ・ロット)」へのオマージュとして書かれた作品です。ですが、それが顕著なのは文庫では一巻の前半のみです。
まず単純に両者を比較すると、小さな共同体に住む人々とそのありふれた日常を、浅く表面的に描写することで、どこにでもある田舎町と云った印象を読者に与えようとしている点は、両作品とも同じです。ところが「呪われた町」で吸血鬼と対決するのは、共同体の中で別段特殊な位置でもない者達で、対して「屍鬼」では共同体の中心的役割を担う人物達が、事に当たります。
登場人物の質の差は、当然心情も含めた人物描写の質的な差に繋がります。「屍鬼」の登場人物達は、内面の多くを描かれ過ぎてしまっています。これではどこにでもありうる、と云う怖さは醸し出されません。多くを描くと云うことは、物事の抽象性を削ぎ、特殊にしていくと云う作業に他ならないからです。
次に「屍鬼」では、医学的な裏付けを与えて、現代的な怖さに繋げようとする意図が汲めます。しかしこれが全然怖くありません。また裏付けそのものも中途半端で、何故「起き上がり」になってしまうのか? という部分が完全に放置されています。
屍鬼(一) (新潮文庫)
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そもそも恐怖とは頭で理解して「ああ、怖い」と思うものではありません。むしろ逆で、目の前の現実に対して理解できないからこそ怖いと感じるものです。例えば呪いや祟りを怖く感じるのは、当事者がその対象になる理由やその仕組みが分からないからこそでしょう。その理由や仕組みが分かれば、怖くないのです。どう対処しようかと前向きに考えるだけです。事実、物語の村人達はそうして屍鬼達を駆逐していくのです。
人は理解できない事物や現象に、恐怖を感じるものです。そういう意味でも「屍鬼」は、多くが描かれ過ぎたと云う観があります。
何より致命的なのは、屍鬼一体につき人間六人程で吸血ローテーションを組めば、無駄な犠牲は出ないだろうというやり取りです。作中ではそのような取引や交渉は、最初から切り捨てられています。これはおかしいです。ここまで現実的要素を盛り込んでおいて、何故それをしないのか、と云う疑問が残ります。
例えば感染性の不治の病に罹った人がいたとして、現代の日本という設定を踏まえると、何の救済も援助もなされないとは考え難いです。そして屍鬼とは医学的な視点で見れば、感染性の不治の「死という状態」が続く病とも取れなくはないのです。
「屍鬼」は何も怖くありません。恐怖よりも、むしろ暴走する村人達の人間性の方に嫌悪感を覚えます。
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