ライトノベルというジャンルは、十代の人を主な読者に据えたものとも言われています。ですが本作「ソードアートオンライン(7)マザーズ・ロザリオ」は、そのようなジャンルの中にあって、比較的重い話になっています。
但し、この作品の感想として、人の生死や生きた証といったものについて云々することは、敢えて避けておこうと思います。そういう話をするには、この話はあまりに綺麗ごと過ぎるからです。ぶっちゃけ人の生死なんて、そんな綺麗なものじゃないでしょうから。
それよりは、十代の人に人気があるという本作から、今時の若者達が実生活において感じてそうなこと、すなわち物語のどういった要素に共感しているのかを読み取ってみようと思います。
恐らくキーワードは「居場所」なのではないでしょうか。本作で言われる「居場所」とは、心の還る場所とも呼ばれています。具体的には、本当の自分でいられる場所、といった意味合いのようです。
この「居場所」を求める心理を裏返してみます。すると、今の自分は本来の自分ではない、ここは自分のいるべき場所ではない、という思いが潜んでいると考えられます。
これはたとえば、実生活において親やその他、自分以外の人間に、自分の生き方・あり方を押し付けられて、抑圧感や閉塞感を抱いている。その上、その抑圧感や閉塞感を自力で打ち壊せないで、現実世界における自分の無力感を感じて苦しんでいる、ということが読み取れます。
ところが一方で、人は無意識の内に自分を美化・正当化しようとする傾向が一般的にあります。自分はもっと優れているはず、抑圧や閉塞状態を打破できるはず、もっといろんなことができるはず、といった具合です。そこで出てくる考え方が「こんな無力な自分は、本来の自分ではない」というものです。
その考えの延長として、本来の自分と信じる姿に戻れるところ、それが「居場所」であり、心の還る場所なのでしょう。どこにあるのかは分からないけれど、それを求めて止まない気持ちだけが明確で、人によっては自分探しの旅に出たりするのかもしれません。本作では、そういう人々はゲーム内で、理想の自己実現を行っていると言えます。
自分の姿の、理想と現実の差から生じる無力感に喘ぐ人々に「は? 何言ってんの? 今、目の前にいるのがお前じゃんか。世界中どこ探したって、お前はそこにしかいねえよ」と一刀両断せず、作者の川原氏は「ぶつからなきゃ伝わらないこともある」と、逃げずに生身で現実に向き合え、と方法を示してくれます。
優しいですね、言い方が。私なら「本来の自分とかねえから。どこ探したって、自分なんてのは今そこにいる、生身の自分しかねえんだって。弱いのが嫌なら、強くなりたいなら、今この場で、限りある残り時間を使って、精一杯頑張るしかねえだろうが」と突き放してます。
ところでアスナの母、京子が最後に都合よく心変わりせずに転校を強要していたら、アスナはそのまま、渋々受け入れていたような雰囲気でしたね。まだまだですな。
0 件のコメント:
コメントを投稿