芥川賞受賞後の著者会見で、もらって当然と言わんばかりのふてぶてしい態度をテレビのニュースなどで報じられたことと、それなりにインパクトのあるタイトルでそこそこ有名な小説ではないでしょうか。
さて実際に読んでみた感想ですが、単純に面白くはないと思います。
純文学なんだからそれは仕方が無い、と言われるかもしれませんが、純文学と呼ばれる小説の中にも話の筋が面白いものは、探せばいくらでも出てくるかと思います。
そもそも純文学と大衆文学の境目というものが曖昧な気がします。
芸術性を重視した小説が純文学と呼ばれるそうですが、小説の芸術性というものが何なのかよくわからないんです。
小説での「芸術性」という言葉が指し示すものは一体何なのでしょうか。言葉の連なり、対象の写生的な描写、声に出して読んだ時の音の韻律、そういったものなのでしょうか。でもそういうものを追求したいなら、別に小説じゃなくってもいいんじゃないですかね。
共喰い (集英社文庫)
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さて「共喰い」には表題作と「第三紀層の魚」の二編が収められています。順番に感想を書いていきます。
「共喰い」あらすじ
女を抱く時に相手を殴ることで快感を得る性癖を持つ父親と自分は同じなんだろうか。
女を殴りながらでなければ、自分もいずれセックスに満足できなくなるのではないかと、17歳の篠垣遠馬はそこはかとない不安を感じていた。
母親の仁子が家を出る時には、息子である遠馬を連れて行かなかった。
その理由は「お前はあの男の種じゃけえね」というものだった。
果たして親子の血は争えないものなのだろうか。
まずタイトルの「共喰い」ですが、「鰻」に改題した方がいいと思うんですよ。別に共喰いと呼べるようなことは、物語の中では起こりませんでしたから。
それにしても個人の性癖というものは遺伝レベルの問題なんでしょうかね。教育心理学の分野になってくるかと思うのですが、そういう趣味や嗜好性は育つ環境に左右されるもののような気がします。
ただこの物語では環境に左右されるものだったとして、すでに手遅れで親とよく似た性癖などを不本意ながら持ってしまった場合、どうすればいいのかという遠馬の悩みが描かれています。
そしてやたら鰻の描写が多く、男性器に見立てたりしているんですが、どうせそのように描くなら魚屋を営む仁子にその鰻の頭を捌いてもらえばいいと思いましたけどね。
作者がどうして最後、短絡的な結末に導いたのかその意図はわかりません。
「第三紀層の魚」あらすじ
信道はチヌを釣り上げたかった。
曽祖父にチヌを見せてやりたかったのだ。
だがいまだにチヌと呼べるサイズは釣ったことがない。
曽祖父の語る戦争や炭坑の話は信道にはさっぱりわからないもので、曽祖父と信道とは釣りの話、正確にはチヌの話でしか繋がらなかった。
「床ずれが出来ると人間、長くない」とは母の言葉だったが、夏の終わり、曽祖父の背中に床ずれの痣が現れるようになった。
まず信道に小学生らしさがあまりないのが気に入りません。
読んでいて感じたのは人物全員が表情に乏しくて、ベタで黒く塗りつぶされたのっぺらぼうな顔に見えるんですね。喜怒哀楽の描写はちゃんとあるんですが、生きている人間のように感じません。
この小説では何が言いたかったんでしょうね。お国のために戦った、またあるいは地の底深くまで潜って石炭を掘り出し、日本の復興に尽力した者への敬意を喚起したかったのでしょうか。どうもこの手の話は好きになれませんね。
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