「明日は檜になろう、明日は檜になろう、と一生懸命に考えているにも拘らず、永久に檜になれない木。だから、あすなろ」それが翌檜の名の由来、という俗説があるらしいです。
この物語で描かれるのは、その翌檜同様に「明日は檜になろう」と、懸命に生きる人々の姿です。
物語で言われる檜も翌檜も暗喩です。そしてこの暗喩を解き明かす鍵は、檜にあります。檜あるいは檜のような人間とは、どのような人物像を指しているのかについて、考えてみます。
物語の筋に沿って拾っていくと、それは一角の者、他人より優れた者、名を挙げた者、あるいは想いを寄せる相手を伴侶にすることであったりします。包括的に捉えると、自分をより程度の低い者と位置付け、それをして翌檜と呼び、一方、自分の理想とする姿を檜と見做した比喩です。そうすると、檜とは各人各様に姿を変える、実体を持たないものだと言えます。
自分が檜か翌檜なのかの判定は、主観における相対的判断で為されます。例えば物語では、「勝敗」の章における鮎太と左山の関係が分かり易いかもしれません。互いに相手を檜、一方、自分は翌檜と見做して、二人は切磋琢磨する訳です。
あすなろ物語 (新潮文庫)
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現実と理想の板挟みの中で、理想の自分の実現に向けて、足掻きながら生きる人々の姿を描いた物語、それがこの「あすなろ物語」だと思います。
これはこれでいいと思うのですが、一方、今の自分を「これでよし」と認める生き方もいいのではないでしょうか。まだそこにない自分を追い求める生き方を、否定はしません。しかし、今、そこにある生身の自分を認め、今を充実させる生き方もあると思います。
思うに、人が生きるとは、どういう生き方であれ、必死に今を足掻くことに他ならないのでしょうから。
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