「海と毒薬」遠藤周作 (新潮文庫)

2012-11-08

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気胸を患う「私」のために、引っ越してすぐに妻が見つけて来てくれた勝呂(すぐろ)医院に通うことになったが、この勝呂医師はどうも少し変わった人物で愛想がない。腕の見事さは気胸の処置を受けた「私」自身が知るところではあったが、にも関わらず「私」はこの医師に不安を感じずにはいられなかった。
しばらくして義妹の結婚式に出席した「私」はそこで人づてに、勝呂医師の過去を思いがけず知ることとなってしまった。
彼は太平洋戦争中、捕虜の米兵を臨床実験被験者として使用した生体解剖事件に関わった一人だったのだ。
そして物語は事件に関わった勝呂・戸田・看護婦の視点で淡々と語られていくのだった。

 実際にあった九州大学生体解剖事件を題材とした小説なのですが、読後の感想としては作者の訴えようとするテーマがどうも見えづらい感じがしました。

 遠藤周作氏はカトリック派キリスト教信者として広く知られていますが、まさか「罪の意識や倫理の欠如は、神への信仰を持たない日本人だったからだ」と言う主張をするための小説とは、私には思えないのです。

 医者が人命にかかわる人体実験を行うことは悪である。そして戦争とは人命を預かる医師ですらもその倫理観を狂わせ、間違わせる。まずこの辺りが一般的な認識なんだと思います。
 ここにキリスト教か否かという問題が入り込むのは、どうも不自然な気がしてなりません。


 戦争という時代状況であったという事実や、軍が良いと言ったからとやったという言い訳は、トルストイの「光あるうちに光の中を歩め」の中で、良い生き方を知っていながらいざ実行する段になるとあれこれと言い訳をして、結局何も実行に移さない人々の姿と通じる部分があるように見えないでしょうか。

 「光あるうちに光の中を歩め」は一見すると宣教的な書物ですが、現代に照らして読むと宗教に限った話ではなく、普遍的な倫理観とそれを目先の利益のために受け入れられず、間違っていると感じていながら間違いを正さないで生きる人々の話として読むことができると思います。
 この「海と毒薬」も、本来そういう読み方をするべきなのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。
 「光あるうちに光の中を歩め」では、俗世の人ユリウスは最後には光の中を歩むに至りますが、「海と毒薬」ではその部分がなく、どうにも救われない気持ちのままラストを迎えてしまいます。
 何ともすっきりしない、後味の悪い話だと思いました。

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