西紀1026年の春のことであった。 進士の試験を受けるため開封の都へと上ってきた趙行徳だったが、係官に呼ばれるまでただ待つ退屈な時間の内に、知らず睡魔に襲われ、そのまま寝過ごし、挙句に試験をふいにしてしまう。
絶望に打ちひしがれたまま街を行く彼が目にしたものは、西夏人の女が全裸にされ売り出されている姿だった。
行徳は女を買い取ることで救ってやるのだが、その時に女に手渡された一枚の布片に認められてあった異様な形の文字が、彼のその後の運命を変えていくことになるのだった。
二十世紀になってはじめて姿を現した経巻類の史料を元に、井上靖氏が想像の限りを尽くして描いた壮大な歴史ロマンです。
勢い盛んな西夏、その西夏によって滅ぼされた敦煌の町、またそこに絡む史実の人物達、それらの間を架空の登場人物たち(趙行徳・朱王礼・尉遅光)が行き交うことで繋ぎ合わされ、物語が紡がれていきます。
試験に失敗し打ちひしがれた気持ちの趙行徳は、その後流されるまま西夏の兵となり、西域に生きるようになります。
挫折と惰性。現代に生きる人たちも決して無関係とは思えない生涯ではないでしょうか。
そんな彼も最期を覚悟した時には、自分が為すべきことを見出します。
結果的にその歴史的価値は大きく評価されることになりましたが、彼自身は決して偉業を為そうと意図していたわけではなかったはずです。
これまで流れのままに流されて生きてきた自分の生涯を振り返り、いずれ名前も存在すらも儚く消えてゆく我が身に思いを巡らした時、今できることで自分の生きた証のようなものを残したいと考えたのではないでしょうか。
これから生まれ来て、若き日の自分と同じように知識を求める人たちに何かを残したい。
ですが敵の迫る中、彼にできることはあまりにも限られています。
そうして彼は経巻類を隠すという小さな、ですが決して無価値ではない作業に至るわけです。
人はいずれ亡くなります。いつか必ず、遅かれ早かれ亡くなります。
例えば病気や老衰でなくとも、事故などで若くして突然生涯を終えてしまう可能性だって十分にあります。
いつ死んでしまうのかなんて誰にもわかりません。
そう考えると大切なのは、生きた時間の長さではないと思います。
生という限られた時間の中で何を為し、残そうとしたのかということに、その意味や価値の一片が隠されているような気がします。
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